2008-07-03 09:52:58
嘉兵衛や松右衛門はその時代の日本人には希な、蝦夷の原住民のアイヌの人々を大切にした。
かれらの徳のある働きと実績が、1855年2月7日(旧歴安政元年12月21日)に締結された日本国魯西亜国通好条約(下田条約)において、択捉島と国後島を日本領土とし、『今より後、日本国と魯西亜国との境「エトロプ」島と「ウルップ」島との間に在るへし』と定める根拠の一つとなった。
嘉兵衛のもっとも偉大な行為と功績として、「ゴローニン事件」における嘉兵衛の徳の偉業がある。1804年(文化元年)、ロシアの使節レザノフが、通商を求めて長崎へやってきたが、鎖国政策をとっていた幕府がこれをことわると、レザノフは、部下のフォストフに樺太や択捉島の襲撃を命じた。これに対して幕府は、蝦夷地を守らせるため、ロシア船の打ち払いを決め、東北地方の諸藩に出兵を命じ、1811年(文化8年)、ロシアの軍艦ディアナ号が、たまたま千島列島や北方領土の調査をしながら、国後沖にやってきたところ、藩兵は、7人の部下と上陸したゴローニン艦長を捕え、函館の牢に入れた。
翌年、艦長を奪われたディアナ号を副長リコルドが指揮して、再び国後島近海までやってきた。リコルドは、日本船を捕えてゴローニンの生死を確かめるため、たまたま、択捉島で干魚を積んだ嘉兵衛の船を捕獲した。
捕えられた嘉兵衛の落ち着いた様子を見て、非凡な人物だと知ったリコルドは、嘉兵衛を丁重に扱った。嘉兵衛はこのときの様子を手紙にもこしている。その手紙は現存し、嘉兵衛の愛国の真心と深い人間愛があふれ、読む人に感動を与える。
概要は、「私は、この度、運がなくなってしまったのでしょうか。外国へ連れて行かれることになりました。この上は、外国に行ってよい通訳に出会い、永年もめ続けている日本とロシアとの問題を解決するために掛け合うつもりです。何分、捕われの身であるから命は惜しくなく、多少は、お上(幕府)のお考えも承知していますので、日本のために悪いようにいたしません。」さらに、部下10名を失ったことをいたみ、病気の家族のことを頼んでいる。
抑留された嘉兵衛は、厳寒のカムチャッカで冬を越し、部下2人を病気で死なせる。嘉兵衛も抑留の疲れと栄養失調のため体は弱っていましたが、交渉のため、ディアナ号で函館に帰る。そして、幕府とロシアのそれぞれの思惑や文化の違いからの確執を嘉兵衛みずからの徳で解決させた。彼の努力の結果、ゴローニン艦長は釈放され、ここに日本とロシアとの紛争は解決された。
斉藤 一