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高田屋嘉兵衛-4 [街のお宝、地元遺産]
2008-07-03 09:54:08
船頭という身分で、いきなり国際紛争の舞台に立たされ、捕慮という境遇の中で、言葉もままならぬ民間人嘉兵衛が、鎖国日本の幕府の政策の中にあって、強国ロシアを相手に対等の外交をやってのけた。

高田屋嘉兵衛が苦心をして択捉島への航路を切り開き、択捉島の人々の生活を向上させた。また、工楽松右衛門が、多くの困難に見舞われながら、択捉島の波止場を築き、この島の開拓(人の心も)に努めた。1945年(昭和20年)8月15日、日本は、「ポツダム宣言」を受諾し、連合国に降伏したが、その後ソ連軍は、千島列島を南下、8月28日には択捉島、色丹島、国後島及び歯舞諸島に上陸した。1981年(昭和56年)、国が「北方領土の日」と定めたことを受けて、翌年、青年、婦人、福祉、農業など、兵庫県内の52団体の代表が集まり、北方領土返還運動兵庫県推進会議が発足した。
富山も北海道と深い繋がりを持つ県。この運動を若い世代に引き継いで行くためにも、我々が、嘉兵衛や松右衛門の精神に学び、北方領土問題について、いっそう関心を持って勉強し、理解を深めることが大切である。


ところでロシアは高田屋の旗を掲げた船には手を出さなかった。高田屋の旗には、嘉兵衛の徳が なびいて 映って見えたのだろう。
司馬遼太郎が嘉兵衛の一生を描いた小説「菜の花の沖」の中で、嘉兵衛はこう言っている。「商人というものは利を追うものでありながら、我欲ではそれが出来ない。我欲の強い人間は既にその為に盲目になっている、(中略)だから利という海で泳ぎながら自分自身の利については鈍い人間でなければならない」高田屋嘉兵衛は、商人として才が有っただけではなく、大変な人格者であり、また鎖国時代の日本では希にみる国際人でもあった。


「板子一枚下は地獄 板子一枚上は極楽」を肝に銘じ、船の改良、航海術の向上、何よりも人々を大切にした。あれだけの規模の海運業を営んでいたのに、嘉兵衛の存命中においては、海難事故は一度もなかったらしい。高田屋嘉兵衛の業績の随所に、徳を感じる人物であることは確かだといえる。
司馬遼太郎も嘉兵衛を徳川時代の超一級の人物といっている。家康や竜馬や西郷でもない。嘉兵衛はそれらとは違う愛国心と、分け隔てない人間愛の徳のある人としてであるようだ。

外交に無知だった当時に日本にあって、ロシアとの和平交渉を見事に成立させて、それ以降のロシア艦の侵入を絶ったという嘉兵衛の功績を、我々はもっと大きく評価すべきではないか。
嘉兵衛は、ゴローニン事件の心労がもとで、文政元年(1818)、病を得て兵庫へ帰り、翌年には故郷の都志で隠棲し、文政10年(1827)59歳の生涯を閉じる。

嘉兵衛は死を前にして、自分を大将と読んで欲しかったらしい。彼に接したロシア人は尊敬と親しみをこめて、嘉兵衛を大将と呼でいたように。「菜の花の沖で」。
斎藤 一
 
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