2008-07-07 07:19:28
先日、わたしの友人が、四方の郷土史の1ページを飾った栂野彦八翁(とがのひこはち)の本を持ってきてくれました。まだほんの触りだけしか読んでいませんが、江戸期の富山藩と漁民の凄まじい生き様が事細かに書いてあります。
富山藩は本当に狭い藩と以前に書きましたが、それよりも本当に貧乏であったようです。貧乏は悲劇を生みますが、そこからは美しく清らかな魂の感動も生まれます。湊町四方の栂野彦八翁に似た歴史は、同じ湊町の東岩瀬や富山藩を養蚕で支えた山村の八尾にもきっとあると思います。
本家加賀藩より分藩された富山藩と大聖寺藩。富山藩はそのときからすでに借金地獄であったようです。そのため藩は、財政建て直しの貧弱な政策と施策のはけ口を漁民に向けた。
四方は古くから近隣の西岩瀬、打出、練合村の漁村から小魚を請けて、富山城下に四方独占の魚行商をおこなっていた。慢性的な財政難の富山藩は、この小魚行商にまでにも税を課そうとした。漁民は藩の郡奉行への特例処置の嘆願を何度も訴えたが聞き入れられず、奉行宅にて、栂野彦八は抗義の自決をする。その義挙を知った富山藩主の前田利幹は、これまで通り魚行商を黙認し課税処置を取りやめにした。それは湊町四方の漁行商人を窮地から救った義人の行為でした。わたしは義民ではないように思っています。
義人は個人の利害を顧みず正義を重んじる人で、義民は江戸時代、百姓一揆などを指導して権力と闘った人のことです。彦八さんは義人と義民の二通りで呼ばれて後世に伝わっているようですが、わたしは義人栂野彦八の方が好ましく思います。
なぜなら、これでもか、これでもかと振りかかってくる難題(死活問題の課税)に、徒党を組んで組織として動かれたようには思えないからです。
海で磨かれた彦八さんの個の男が、その時その場の状況の中で判断され、個を省みない公の富山藩への抗議と民の四方魚行商人への諭し、そして言葉で言い表せない両方への配慮が伺えます。だから後世の四方の方々は、感謝し感動して彦八さんの遺徳を大切に受け継ごうとしたようです。
全国に義人、義民を祭った神社が119社あるそうですが、その一つが義人栂野彦八を祭った神社が四方にあります。
つづく 斎藤 一