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北風荘右衛門-1 [街のお宝、地元遺産]
2008-08-02 17:28:07
北風荘右衛門

北風家は、南北町時代に北畠義親を援助した功績により、喜多風の姓を得たといわれている。しかし、もう一説として、新田義貞に従って足利尊氏の軍を北風に乗じ船を焼き払い大勝したことにより、義貞より、北風の烈々たるがごとしと軍忠状を受け、喜多風の姓を得、そののち北風となった。こちらの方が面白いし、工楽松右衛門同様に、たいへん面白い姓の由縁を感じる。
北風家が根付いた地は兵庫の神戸であった。一族は繁栄し、兵庫随一の廻船問屋となり、最盛期、北風家は廻船を972隻も持っていた。
現在の神戸の自由で洒落た街の気風は、高田屋嘉兵衛と同時代を生きた土地の豪商の荘右衛門たちが、少なからず影響を与えたと思われる。

北風荘右衛門は北浜鍛冶屋町に住み、北前問屋として米穀・肥料を販売し富を蓄積した。それぞれの本家分家の総領は代々、荘右衛門、彦太郎、六右衛門を名乗っているため、同じ名前の人物が何人もいる。

荘右衛門貞幹(さだもと)(1736~1802)は、一時衰えていた北風家を再興した人で、蝦夷地交易の利に着眼し、高田屋嘉兵衛を後援し、ニシンしめかす(干鰯)の大量移入をはかり、この肥料によって西日本の農業生産は急速に増大したといわれる。貞幹のあと三代にわたって、北風家は兵庫津十二浜の問屋、倉庫街を支配し、豪富をうたわれ、金穀をもって救民に宛てたり、新田開発も行った。

北風正造は幕末・明治の日本を代表する兵庫の豪商で、西郷隆盛や伊藤博文などとも維新前から知己があり、その他、多くの勤皇の志士と面識があったといわれている。維新後は友人でもある初代兵庫県知事・伊藤博文と共に、兵庫および神戸の発展に貢献した。神戸駅用地(約24万平方)を無償提供した事でも知られる。
彼は京都市伏見の郷士長谷川景則の次男で、母は有栖川宮家の老女であった登士子。1853(嘉永6)年19才で諸問屋北風家の婿養子になって相続し、荘右衛門貞忠と改名する。貞忠は実家の影響で密かに勤王派を援助した。維新後は積極的に政府に協力し、さらに私財を投じて、民兵の兵庫隊を組織して治安維持を図ったり、庶民教育の明親館設立にも尽力し、1873(明治6)年公職を辞しても兵庫新川開鑿事業や米商会社・七十三銀行・商法会議所などの創立に尽力するも、家業は衰退し1885(明治18)年破産、同28年に没すると絶家した。


兵庫は清盛が港を開いたときから歴史に登場する。そして北風家。そして私設海軍訓練所の勝海舟や竜馬へと繋がっていく。
つづく 斎藤 一
 
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