2008-08-12 17:42:17
せっかくここまで来たのだから長岡に寄航してみます。長岡にも大変に偉い人がおられます。
長岡藩といえば小泉元総理が国会でいった「米百表」があまりにも有名です。
幕末維新の戊辰戦争は長岡城下にも及んだようで、長岡藩は、軍事総督・河井継之助の指揮のもと、奥羽越列藩同盟に加盟し、新政府軍と徹底的な戦闘を行った。(司馬遼太郎の歴史小説「峠」で広く紹介)。その結果、250年あまりをかけて築き上げた城下町長岡は焼け野原となり、石高は7万4千石から2万4千石に減らされた。幕末に江戸遊学をし、佐久間象山の門下生であった小林虎三郎は、独自の世界観を持ち、「興学私議」という教育論を著していた。戊辰戦争の開戦に際しては、長岡藩が参戦することに反対の立場をとっていたが、敗戦後、文武総督に推挙された虎三郎は、見渡すかぎりの焼け野原のなかで、「時勢に遅れないよう、時代の要請にこたえられる学問や芸術を教え、すぐれた人材を育成しよう」という理想を掲げ、その実現に向けて動き出した。明治2年(1869)、戦火を免れた昌福寺の本堂を借りて国漢学校を開校し、子どもたちに論語などの読み方を教えた。
こうした状況の中で、翌年5月、長岡藩の支藩である三根山藩(現西蒲原郡巻町)の士族たちから長岡藩士族へ見舞いとして、米百俵が贈られてきた。米百俵は当時の相場でおよそ金270両前後。そば一杯がおよそ24文、金1両は約10,000文であったので400杯にもなり、いかに大きな贈り物であったかがわかる。藩士たちは、これで一息つけると喜んだ。食べるものにも事欠く藩士たちにとっては、のどから手が出るような米であったようです。
しかし、藩の大参事小林虎三郎は、この百俵の米は文武両道に必要な書籍、器具の購入にあてるとして米百俵を売却し、その代金を国漢学校の資金に注ぎ込んだ。こうして、明治3年に国漢学校の新校舎が坂之上町(大和デパート長岡店の位置)に開校した。国漢学校には洋学局、医学局も設置され、さらに藩士の子弟だけでなく町民や農民の子どもも入学を許可されたようだ。国漢学校では、小林虎三郎の教育方針が貫かれ、生徒一人一人の才能をのばし、情操を高める教育がなされた。後年、ここから新生日本を背負う多くの人物が輩出された。東京帝国大学総長の小野塚喜平次、解剖学の医学博士の小金井良精、司法大臣の小原直、海軍の山本五十六元帥なども。わたしは第二次大戦が苦手ですが、山本五十六の成年期は魅力的で面白い。また河井継之助と運命が重なるためか、他の軍人とは異なった見方をしているようです。
この「米百俵」の精神は長岡市のみならず、日本の全国にも情操を高める人材教育の理念となって今日に至っています。
つづく 斎藤 一