2008-08-12 17:44:49
河井継之助にも北前船で寄航してみます。
継之助(つぐのすけ)は、文政10年1月1日(1827年)の生まれで、幕末期の越後長岡藩牧野家の家臣です。「継之助」は幼名・通称で、読みは「つぐのすけ」とも「つぎのすけ」とも読まれています。小藩長岡藩を当時の誰しもが考えなかった自国を他のいかなる体制、組織、思想からも一線を画し、距離を置くことで中立を成し遂げようとした人。これは単なる加賀藩の日和見主義とは違うものであります。中立は、他の組織等からの圧力を排除して中立を保つために相当程度の軍事力を保持する。そのため継之助は、当時日本には3ちょうのうち、2ちょうのガトリング砲(大型の高性能な機関銃)と2000挺の最新式銃などの最新兵器を継之助が持っていたようです。小林虎三郎は親類で、小林の人物像が語られる時において、河井は好戦的な人物として描かれることも少なくないようですが、薩長の横暴を見かね、手紙の中で「かくなる上は開戦もやむなし」としぶしぶ開戦を支持しており、必ずしも好戦的な人物ではなかったことが伺えます。北越戦争においても、開戦は藩として、自立を確保するための自衛的な意味合いが強かったようです。だから山本五十六と重なるようです。
わたしは、この継之助から、日露戦争の秋山好古(よしふる、晩年大将)のことが偲ばれます。大将は日本では最高の騎馬隊を組織した人で、当時最強のロシアのコザック騎兵をしのいだ人です。晩年、好古さんは孫から「おじいちゃんは強かった?」と聞かれると、大将は「弱かったよ」と答えたそうです。しかし「絶対に逃げなかったよ」と言っておられたらしい。彼も騎馬隊には珍しいというより異様な、新式機関銃を何故か持っていたようです。それを許した大将の大将も大したものです。
好古さんの弟さんが、これまた有名な、正岡子規に似た感性の持ち主である、秋山真之(さねゆき、晩年中将)です。日露戦争の日本海海戦における東郷平八郎の参謀で、ロシア艦隊を一隻残らず沈める戦法を考え抜いて実行した人です。考え抜いたあげく到達したのが、高田屋嘉兵衛の船頭達も知っていたであろう、瀬戸内水軍の古法からの戦法であったようです。そのため真之さんは何時も何処においても戦法を考えていたのか、日常の行動やしぐさは、一般の人とは違っていたようです。しかたないことで、日本の運命を決するこの海戦、一隻でも残れば、中国で戦っている陸軍への食料や武器の輸送は困難となるからです。
「天気晴朗なれど波高し」これはあまりにも有名で文学的な軍発つ電文です。真之さんが作られたものですが、当時の参謀本部は「天気晴朗」で止め置くべきとも言ったそうだが、最初、正岡子規に共感し文人を目指された軍人真之さんとしては、波が高いことは日本軍とっては有利、何故ならロシアの砲の射撃技術では、この高波では味方艦艇を貫くことは出来ない、と伝えようとしたように思えるからです。
東郷平八郎(晩年元帥)は日本より英国では有名です。ネルソン提督に匹敵すると観てくれています。彼の人となりは日本人の沈着冷静で広い心を持ち合わせていること。何よりも、これまで何事においても、無事で生きてきたこと。何事において無事が凄いことのようです。
わたしは日露における東郷平八郎と児玉源太郎の両名が、日本の侵略にあてがわれた祖先からの授かりと思っています。なお幕末期においては、竜馬、西郷、高杉が天からの贈り物となるようですが。
やはりいろいろな所に偉い人の港があるようです。また目を擦りながら栂野彦八翁を読んでみようと思います。
つづく 斎藤 一