街のお宝、地元遺産紹介します
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冨山大学-7 [街のお宝、地元遺産]
2009-02-11 13:57:00
いま私は八尾で高野さんという凄いたくみに興味を持っている。成長期のファスナーラインを極端に短縮した実績を持っている人。他県から偉い人との眼差しで見られているからである。

ロボットに戻ろう。
ロボットは、アトムの産声から、鉄人28合、ガロン、エイトマン、ロボたん、そしてドラえもんで行き着いた。と私は思っている。清家さんから我々日本人は、ロボットを奴隷として、絶対に観ないし、安直には捉えはしない。我々はロボットに対し、ややもすれば、失ってしまう崇高で理想とする人格をも宿っていることに疑わず、アトムが築いた日本人の深く浸透したロボットへの願いにも似た本性を、改めて実感させられる。
私は、手塚治虫のアトムがこの礎を築いてくれたし、そして藤子富士夫のドラえもんで完成させてくれたと思っている。

 以前に石黒信由と椎名道三を教えてもらった、博物館の元館長である恩師について書いてみようと思う。先生とお会いしたのは中学のとき。社会科を担当されていらした。当時日産ブルーバード(勿論中古だそうだ)を乗った粋な先生であった。先生は最初の授業において、必ず絵を描かれることが有名で、私のときはペキン原人の横顔であったと記憶している。授業は面白く楽しかったようで、私が歴史や時代小説が好きになった一つの要因とも言える。だから私にとって先生は、恩師と呼んでも差し支えないはずであるが、先生は大変に迷惑な顔をされるかもしれない。

 この先生は富山の本物の郷土史家と言える数少ない方で、冷静にそして温かく時代を睨み、その時代に生きた人々を眺める。そこから見出された史実には、誇張や思い込みは一切ないようです。江戸期の農業とそこに生きた農民が先生のテーマだったと記憶しているが。
 この恩師から聞いた話がドラえもんの藤子富士夫の話だ。
手塚治虫には若き赤塚富士夫、石の森章太郎、藤子の両巨匠などの大変なメンバーが手塚治虫を支えていたらしい。実際、手塚の絵を書くのは、この若手漫画家たちの卵。
手塚のキャラクターを最も上手く描けるのが赤塚らしい。バカボンを知っている私には、ちょっと意外な気がする。叱られると東北の田舎へ帰ってしまうのが石の森で、みんなが引っ張って戻すのに苦労したとか。また、先生は下積み時代の藤子富士夫を訪ねたとき、足を廊下にはみ出して寝ていたのに驚いたとのこと。三畳に机二つ置いての徹夜明けであったのか。
富山高校で教鞭を執っておられたとき、藤子の絵を生徒達に見せたくて連絡すると、藤子が二つ返事で自分の沢山の絵を送ってくれたとのこと。しかも無料である。そのとき出版の小学館も訪れたそうだが、このような展覧会を開くと二、三千万はすると言っていたらしい。下世話の話として。
このような藤子と親交のある人は富山においては、そう何人もおられまい。このようなことを書くと、先生はきっと、あなたの文章は誇張が多い。しかも内容が間違っていると言われそうである。しかし私は、郷土史家でもなければ、新聞記者でもない。まして小説家でもない。
このように楽しく面白く想っている頭を、この年になって、いまさら改訂する必要は、さらさらない。と何故か威張る自分が最近の私なのだ。

馬場はるさんは富山県東部海岸の泊から馬場家に嫁がれたが、泊も以前は北前船で賑わったのだろうか。この泊には、いまだ心やさしい人々がたくさん住んでおられると思っている。わたし事だが、親戚がこの泊の方々に本当にお世話になったりしたようだし、はるさんが泊のご出身であることで証明ができる。富山県と富山大学にとってたいへんに幸運なことだった。
先日、馬場はるさんの公園の近くを車で走っていると、おばあちゃんが横断歩道を横切ろうとしているので、わたしは車を停車させた。すると申し訳なさそうに、何度も頭を下げながら、小走りで横断歩道を渡っていかれた。そんなに急がなくてもいいですよ思いながら眺めていると、渡り終わってお辞儀をされた。その顔は、とても可愛くて、まるで写真のはるさんようだった。

また富山大学構内のサイトへ行く機会も増えそうである。そのときは缶コーヒーでも飲みながら、馬場はるさんとドラえもんのこと、そして「どこでもドア」でも探しにキャンパスを歩いてみようかと思っている。
斉藤 一
 
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